自己肯定に潜む病
ここ最近、自己肯定感って言葉、流行ってますよね?
自己肯定感=自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉らしいです。
なにかを評価する時、基準が必要です。ある基準を超えているから、自分は自分を肯定できる、そのような基準が各々に必要なのです。
が、ふむなるほど、どうやら現代では見えにくくなっているようです。
僕も元来自己肯定感の低い人間です。もちろん生まれつきではなく、決定的な契機がありました。それは小学生の頃まで遡ります。
小学生時代、モテるやつは足が速い奴と相場が決まっていましたよね。そうなんです。極端に足が遅かったんですよ。しかも忘れもしない小学3年の夏。
水泳を習っていたんですが、そこに女の子のDさんがおりまして。彼女とは、幼稚園から一緒でそこそこ仲よかったんですよ。彼女にですね、ある日唐突に言われたんですよ、笑われながら。
「水着にお腹乗ってる気持ちってどんなんなの?デブ。」
は?ってなりましたよね。突然の誹謗中傷への怒りではなく、それは高純度の困惑の感情から出た、は?でした。デブ?誰が?子供の頃なんて、そうそう鏡で自分を見ないんで気づかない。
この時初めて自覚しました。自分はデブであると。
この日以降僕の自己肯定感というものは姿を隠し、どこかへ消えてしまいました。
プールの日は全力でお腹をへこまし、多少暑くても上着を着る事ですこしでも余分な皮下脂肪を隠蔽する毎日。
話が脱線しかけましたが、何が言いたいかというと、僕みたいな人間って沢山いますよね?昔から。こうした些細な理由から自己肯定感を順調に育めなかった人間というものは数多く存在したはずです。
では何故今、「自己肯定感」が流行っているのか?
日本の文化的背景や、教育制度から日本人の自己肯定感がそもそも低い、というのはありますが、それに拍車をかけているのは僕は1つに「インターネットの発達」があると考えます。
ネットの恩恵は様々あります。その中で自己肯定感に関連のある特徴を述べると
①発信、受信の自由化
②情報の遠隔性の解決
この2つにあると思います。
現代では、誰でも好きなことを発信し、それを誰もが受信することができます。これは昔では考えられませんでした。昔より獲得する情報量が圧倒的に多くなった。
冒頭に話は戻りますが、自分を肯定する基準、それは、日々生きていく中で自分の得た経験と向き合い、時には他人の第三者意見を取り入れることで確立していきます。
しかし、インターネットの発達がこの「自分と向き合う」ことを少なく、「第三者の意見」を過多にしています。
なぜなら自分で考える前に、一発ググっちゃえば、誰かが出した答えが出てしまうからです。これが問題なのです。(これが原因で、「話途中で、自分の興味のある話にどんどん飛んでってしまう」特徴をもった人間が今増えてるらしいですね。)
しかもこれ、さも当たり前の様にしちゃってるんですよね。更に日常化していると自分で気づくことができないという。これにより他人の基準を頭ごなしに模倣している状況が出来上がっています。
自分の過去の経験に沿って作られていない基準が、自分の将来を肯定してくれるなんてのは筋が通らない話で。これによって、他人の基準で知らずのうちに自分の価値を測り、自己肯定感を失う人が多い、これが原因だと考えます。日本人の右に倣え精神も相まって。
そしてもう一つは比較対象の増加です。SNS村に所属すると、自分の近い年齢の発信力ある「強い個人」に出会います。昔は、発信力のある人間は限られていましたし、自分の手の届く、近しい社会集団にしか比較対象はいなかった。
それが②によってその檻は壊され、無数の比較対象の場に自分を置くようになった。すると自己肯定の基準はより高くなったり、曖昧になったりで基準を決められず、自己肯定感を得られないとなるわけです。
この様な考えに至ったのも、就職活動中に、とある業界を調べた時にSNSの発達による収益構造の変化を学び、気づきを得たところからです。
栄えある御社の社員様が、大企業のマーケティング部署を用い、こういうような特徴がある、とお話をしていただいたので、僕の憶測や感覚だけではないという事を一応記しておきます。
自己肯定感の本が売れるのは、こうして情報過多になり、輪郭が曖昧にぼやけてしまった自己肯定の基準を、一つ明確に、読者に寄り添って、当たり前のことを再確認するように示しているからなんでしょうね。
こういうSNS病は、知らず知らずの内に、僕たちの身体ではなく思考を冒していることを自覚すべきであると、日々思います。そして、あらゆることに対して、「自分自身で考えた価値基準」を確立して豊かな心を持っていきたいですね。
僕も、自己肯定の絶対的価値基準として、「痩せていること」があります。一応ね。