放蕩ドラ息子の布団上の空論

大学生活で何も成し遂げられず、親の脛をかじり続けた世の消費者代表。日々消費したコンテンツの批評、ベッドの上で寝転がりながら思考した愚物を、なんの説得力もない男が投稿していく、お目汚しブログ!知り合いの方は話のネタに。そうでない方は、いつか暇つぶしに。

ヨルシカ「ノーチラス」にて③

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そしてとうとう、「ノーチラス」。


海底二万マイルといえ作品に出てくる潜水艇ノーチラス号の名前ですね。


「エルマ」に含まれる楽曲ですが、PVからして主人公が最後にエルマに宛てた歌だと分かります。


PVの内容は、主人公の旅先での暮らしの回想シーンと、届いた手紙を頼りに、エルマが主人公を探す現在のシーンが交互に映される、といったところです。


もう、全ての総集編感が強い...感慨深くなりますね。

あれはあの曲のここだ!と答え合せをしてるだけで十分楽しめる作品でした。


冒頭から泣かせにきますよね。主人公が浜辺に残した詩とギターを手に泣きながら歌を叫ぶエルマ。

雨とカプチーノではもう主人公のことなんて考えてませんよみたいな淡白な表情してたくせに。


やはり死因は花緑青の毒性の人口塗料を飲み干して海へ身投げ、でしたね。インクを泣きながら取り出し、次のシーンで空の瓶が投げ出されるところはあぁ、、、と言葉を失いました。


PVでの「君が僕の音楽だった」 、手紙での「君はまるで無謬の月明かりだった」、「人生が芸術を模倣」する。


彼にとって、エルマこそが模倣すべき芸術であり、それを失った今、音楽が作れるわけもなく、人生の生きがいも失ったんだなと、それをまざまざと感じさせられました。


最後までPVを見た上で疑問なのが、何故この曲は「ノーチラス」という題なのか。


潜水艇。深く海を潜るが、その最後は絶対に浮上してきます。海に沈んでいくということのメタファーとしては少し間違っている気がします。

事実Na-bunaも、再び浮上する、眠りから覚める、ことのメタファーと言っていますし。


ここは「エルマ」のアルバム買わないとわからないと思うんですが、


・君は一度音楽をやめた僕にとって、音楽を再び始めさせてくれた「ノーチラス」であり、心は絶望に沈みきり、体もこれから海に沈んでいく自分にとって、もしエルマが隣にいたら僕を救い出してくれる「ノーチラス」になっていたのになぁという、主人公にとってエルマが「ノーチラス」説。


・エルマはある辛い理由で主人公と離れ離れになってしまい、エルマと離れていても、いつでも君のことを想い、歌を作り続けている。僕はいつまでも君を忘れないから、前を向いて生きていってほしいという、主人公の歌が、エルマにとっての「ノーチラス」説。


うーん、下っぽい気がしますね。歌詞的にも。


まああとは明日買いに行くアルバム次第ですな。総評した感想はそれを見てからにしようと思います。


「ヨルシカ」。どれも素敵な楽曲ばかりです。夏を感じたい人、夏の儚さに触れたい人、ぜひおススメです。


ヨルシカ「ノーチラス」にて②

ヨルシカは明日で全4作のアルバムを出しています。


そのうち最初の二つは、『「死」を繰り返し、輪廻転成しながら何度も出会い、別れる男女』と、『夏』をコンセプトに描いています。


Na-bunaの描く「夏」は格別ですよね。ウェイな夏の側面ではなく、夏の儚さ、季節としての美しさに全振りされてて、僕の性癖に緊急治療が必要なくらいブッ刺さってます。


一曲一曲は基本的に独立しています。たまに「言って。」のアンサーソングとしての「雲と幽霊」であったり、この二曲の間の、「靴の花火」出会ったりするわけですが。


ここでも面白いのが、物語は違えど、どの楽曲にも共通のモチーフを用いて「夏」を表現しているのが、ヨルシカの曲の世界観を安定させていますよね。「夏のバス停」とか、「カトレア」とか。素敵よね。


おんなじ世界観だから、男女は何度も生まれ変わって、同じような季節に同じような場所で出会っているのかなぁとか、想像が膨らんで楽しい。


そして、その輪廻転成し、何度も繰り返す出会いの一つとして、のちに二つのアルバムが発売されます。

昔音楽を辞め、ヒロインに出会いもう一度始めたが、酷く思い悩み旅に出る

「だから僕は音楽をやめた」

そして、旅先から届いた主人公の手紙を読んで、そのアンサーソング達として描かれた「エルマ」です。


ここでは、①で述べた主人公の音楽に対する芸術観が爆発しています。彼の悩みは主に3つです。


・金儲けのため、売れるために音楽を作るのは芸術ではない。

・彼の元から突然いなくなったエルマ(ヒロイン)を忘れないように音楽として残したいと思う反面、現実の模倣であってそれは音楽という芸術に即していないのではないか。

・彼女を忘れないために音楽に残しているのに、残ったのは結局音楽だけで、彼女の顔や匂いをどんどん忘れていくことを止めることが出来ずただ生きていることの苦しさ



この3つですね。本当にめんどくさい。が、こういうめんどくさい頑固な奴が、なぜか人に響く天才芸術家になるんですよね。不思議。


最初のアルバムでは、この三点について、物語に添いながら語られていきます。


大まかに述べると、エルマもいなくなり、音楽への葛藤から生きがいを感じれなくなった主人公は、バイトを辞め、貯めたお金で旅に出ます。半年という期間を設け、旅先で真剣に最後音楽に、エルマに向き合い、彼女に最後の手紙を残し、自殺しようと試みます。


いささか早計過ぎないかと思うのですが、これは彼の美学に27クラブがあるのでしょう。有名なロックスターは27で皆自殺事故他殺で亡くなっています。ここにあやかり、綺麗に散ろうと考えたのですね。


旅先についた主人公は、小さな部屋を借りて曲を作り、手紙を書きます。しかし心は全く晴れません。彼女の不在を鮮明に自覚し、音楽への自分の不誠実さを自認しました。


彼は思いつめます。

「稚拙でも、艶のある衝動が感じる作品こそが本当に良い作品だと。だから、本当に音楽が楽しかった初期衝動の2、3年で自分の音楽は終わってしまったのだ。それでも思うように作れず、かといって現状を打開する心意気もなく、目標となく、ただだらだらお、漫然と、鈍重な動きで芸術をさの真似事を続けていた。ブレーキの壊れた自転車を漕ぐみたいに。」


文字を書くときに使っていた「花緑青」という人口塗料も切れ、旅先で自分の音楽という芸術に本気で向き合えない不甲斐なさを実感しながら、旅は終盤へ。


彼はヘンリーガーターという創作家を思い出します。

ヘンリーは60年以上にわたって、ワンルームのアパートで一人で物語を書き続けました。誰にも見せるわけて間も無く。彼の死後、そこには1万5145ページの小説原稿と、数百枚の挿絵がありました。それは今でも、単一てまは世界一長い長編小説です。


主人公は、創作家は皆ヘンリーであるべきだと考えています。

名声や、金や権力なんてどうでもいいはずで、ただ無欲に純粋に、本当に自分の為だけにものを作れる人間であるべきだと。それと比べると自分のしてきたことなんてただの倒錯だ、ただ他人に認められたいという理由しかなかった。


「どうしてあいつがと愚痴を垂れ、妬み嫉みを原動力に創作を続ける。この自分の音楽への在り方は全くの間違いだったんだ。そういうことが漸くわかったんだ。僕のしてきた生き方が少しも正解を掠めないものだった。」


エルマをうまく描くこともできなくなり、音楽も分からなくなり、それも全て、君がいなくなったせいだと、虚しい八つ当たりをしながら旅に飛び出した主人公。その死の淵で、最後の思考を巡らします。


旅先で描いた曲達は、旅先で見たもの、感じたもの、思ったもので構成されている。初めて、芸術と呼べる作品を作れた。彼は言います。死を選ぶのは音楽への絶望でも、人生への見切りでもないと。だらだらと惰性で続く物語は美しくない、それは人生も同じだと。僕自身の物語の結末を書くならそれは音楽しかない。それがこの度で作られた曲達なんだと。僕を象った作品なんだと。


「今までピアニスト、小説家、音楽、様々なものに妥協してきた、妥協の連続が自分の人生であった。そんな暗闇のような人生の最中、エルマに出会い、彼女の詩に触れたとき、そこに月明かりを見たんだ。」


そして、彼は夕陽の差す浜辺で自ら命を経ちました。


根幹のみに触れ、ほとんどはしょりましたが、これが一作目ですね。それでも長くなってしまいました。

2作目の「エルマ」に関してはとうとう明日!発売です。楽しみ。


次でやっと、次作に収録される「ノーチラス」について考察という名の感想を述べていこうと思います。





ヨルシカ「ノーチラス」にて①

本日、ヨルシカの新曲出ましたね。「ノーチラス」

まさに前アルバム、今アルバムで綴られた少年少女の物語の最終話にふさわしい楽曲、そしてPVでした。


こんなにコンセプチュアルに、そして全面に物語を押し出してくる作品は、ボカロ界隈では割と多いのではないでしょうか。「悪の娘」然り、「カゲプロ」然り。


そして、「ヨルシカ」というバンド自体もそう言った類に分けられると思います。


しかし、上記二つと異なる点は、音楽の含有する特性が、物語性のみでなく、作者、つまりはna-bunaの音楽観が落とし込まれている、つまりは芸術性の側面を兼ね備えているところにあると思います。


Na-bunaは、それを表すために、文学でいうところの純文学寄りの歌詞表現を心掛けているように見えました。


例えば、「ただ君に晴れ」の歌詞には、


「絶へず君のいこふ、記憶に夏野の石一つ。」


というフレーズがあるのですが、これは正岡子規

「絶へず人のいこふ、夏野の石一つ。」のオマージュですし、


「靴の花火」のモチーフは宮沢賢治の「よだかの星」、「負け犬にアンコールはいらない」は岸田稚魚の句集「負け犬」のオマージュですね。


こういった純文学者のオマージュ要素が散りばめられています。


またNa-bunaは、僕も大好きなオスカーワイルドの芸術観を肯定しています。


オスカーワイルドは「幸福な王子」(ツバメが貧乏な人に銅像の王子の纏う金箔を運ぶあれ)「サロメ」(最近クリムト展で話題になったあのパーマの女の人は預言者ヨナカーンの首を手に入れた後のサロメです)など有名な作品を残し、sumikaも引用している

「男は最初になりたがり、女は最後になりたがる。」この名言残した人ですね!


彼は芸術に関してこんな名言を残しています。


「人生が芸術を模倣する」


どういうこっちゃですよね。


まず、古くから「芸術は自然を映す鏡である」という考え方があって。たとえばシェイクスピアハムレットで、演劇を鏡にたとえ、演劇は「いわば、自然に向って鏡をかかげ、善は善なるままに、悪は悪なるままに、その真の姿を抉りだし、時代の様相を浮びあがらせる」ものだと喩えています。


しかしワイルドは「芸術の目的は芸術そのものであり、自然を模倣するものではない」

「人生が鏡で、芸術が現実」と言うのです。


「人生が芸術を模倣する、人生が実は鏡で、芸術こそが現実」というのは、当時のサロンの女性たちがロセッティの絵に描かれた美女をこぞって真似しているという例をワイルドはあげていますが、ものすごくわかりやすくいえば、「映画の名シーンを思わず日常生活で真似してしまう」とか、そういうことなのです。インスタ映えとかね。


芸術的に、天才が洗練し、典型的にに表現されたイメージは、現実に存在するイメージよりも人を惹きつけると言うことですね。(ワイルドの説明はほぼ彼女の知識です。)


このワイルドの思想が、「ヨルシカ」の楽曲の根源的な思想であり、主人公の悩みの種なのです。


では次でヨルシカ全体の物語、コンセプトを説明して、最後にノーチラスに繋げたいと思います。


抜歯 その1

親知らずを、抜きました。


歯を抜くっちゅうのは、いつまで経っても慣れませんな。


子供の頃にグラグラになった子供の歯を抜く時、アフロのおっちゃんにバナナ味の塗る麻酔をねじ込むように歯茎に押し付けられたのを、今でも覚えている。


僕小5から高校上がる前まで、矯正をしていたんですね。歯の。


あれ、結構痛くてさ、歯医者行った後はもうおかゆも食べれなくて。挙げ句の果てに口が小さくて、永久歯を4本抜く羽目に。


同時に4本抜いたんですけど、全身麻酔だったんで起きたら終わってたんですよね。でもね、起きた瞬間にもう激痛ですよ。意識朦朧としてるなか歯茎に麻酔8本打たれて大変でした。


局所麻酔、気持ち悪いですよねなんか。自分の体が、ゴム質になったような感じがして。まさに今それなんですが。


いいんですよ、こんなデメリットなんて、100パーセント痛みを除去してくれるメリットには勝てないんですよ。逆に言えば、麻酔は「100パーセント」痛みの除去その一点にのみ存在意義が許されていると思うんですよね。


そして臨んだ親知らず抜歯。もう大工事ですわ。口の中から聞こえてくるはずのない音が響き渡り、僕の心はぎゅーってなりました。


あれれ?なんか痛くないか?って若干思ったんですけど、まさか麻酔が効いてないなんてアクシデントないじゃないですか。なんか病院向かう途中の電車で、酒飲みは麻酔が効きにくいとかいう情報をちらっと見かけたけど、そういうのって根拠ないデマじゃないですか。


まあ、思い込みやろって思ってたんですね。おそらく手術も終盤。結構深いところをギュルギュル削っています。


やっぱりなんか痛いんですよね、確実に。


いや痛え、痛えって顔してるのに、伺うそぶりも見せず淡々と歯を削り続ける医者。くそ、声を上げられず蹂躙されるのがどれほど屈辱か味あわせてやりたい。


なんとか手術は終わりました。20分くらいかな。

あーつら。また再来週です。抜きたくない。


「ドメカノ」にみる恋愛の醍醐味

f:id:riguvo:20190815002110j:plainドメスティックな彼女なる漫画を読んだのですね。いやはや、大変面白かった。


ほら、皆さんご存知の通り僕ってピュアを体現ような少年時代だったじゃないですか。恋や愛の意味も知らず、胸の高鳴る方へ真摯に突き進める人間じゃないですか。


ですが、僕も最近ちょっぴりビターな大人な経験をしましてね、真っ白なミルクにエスプレッソが溶け込んだ、カフェラテハートの持ち主なんですわ。


そんな僕にぴったりな、ビター味を帯びた恋愛漫画が、ドメスティックな彼女(略称ドメカノ)です。


〜あらすじ〜

小説を書くことが趣味なナツオ君(まるで僕)は、学校教師であるヒナに恋心を抱く純朴爽やかな高校生。チャラ気味高校生に誘われ合コンへ向かうと、そこで不愛想女ルイと出会う。意気投合、会場を抜け出し彼女の家へ。そこで彼女から「私の初めてを奪って」という衝撃発言。ナツオくんもやる気満々。しちゃうんですねぇ。家に帰りふわふわとした気持ちでいると父親から再婚の意向を告げられる。インターホンが鳴り、再婚相手が家を訪ねてくる。するとそこにはヒナとルイの姿が。再婚相手の連れ子で、ヒナとルイはなんと姉妹。そして一つ屋根の下でドキドキハラハラな共同生活が!?


なんとまあ、ありふれた恋愛漫画の冒頭なんでしょうか。いや、面白かったんですよ?ただ、他の恋愛漫画と比べてなにが秀でていたか、そういうのはわからんのですよ。マスターじゃないのでね。


ただ、ちゃんといくつかドメカノが良いなぁと思った大きな点があります。もちろん、僕の基準でね。

その一つは、作者の描きたい恋愛の醍醐味、これが僕の趣向と一致したところですかね。


恋愛の醍醐味、それは心の機微。これに尽きると思います。それをこの作品は描こうとしている。


人間は一定の「理屈」という行動基準に従って、そこに矛盾なく因果を成立させるように行動しています。


空腹、という「原因」があって、○○を食べた、という「結果」があるわけです。その間には、「好み」や、「健康」という行動基準があるわけです。お肉が好きとか、野菜食べなきゃとか。この「理屈」によって○○の部分が埋まってくるわけですね。


基本的にこの繰り返しで、人間は生活しています。でも、たまにありますよね。そろそろ「健康」考えて野菜を食べなきゃいけないのに、どうしても二郎が食いたい!とか。「理屈」よりも一時の欲望と言うべき感情に「結果」が左右される時が。これが人間の面白いところだと思います。行動に一貫性がないこと、感情が理屈を凌駕すること、これが「人間味」であると考えます。


恋愛とは、この「人間味」を存分に解放するイベントだと思っています。


ネタバレなしでは話せないので、サラッと言いますが、4巻くらいで、ヒナとナツオは見事結ばれます。教師と教え子、禁断の恋ですね。こういったところに、その「人間味」は現れます。

ヒナは「大人」であり「教師」であり、そして「姉」である。この役満という状況で、「子供」であり「生徒」であり、そして「弟」であるナツオに惹かれていく。普段は社会集団の中で、自分に割り振られた社会的役割を行動基準として、一貫した結果を出し続けているヒナ。だが、ナツオへの恋心という「感情」だけは、この「理屈」を凌駕して交際関係になるという「結果」を出してしまっています。


ここの感情が理屈を凌駕していく描写。作者もここに恋愛の醍醐味を感じているのか、すごく力を入れているんですね。それがとっても好きです。


しかし!より心の機微が醍醐味になるのは付き合ってからですよね!


付き合うことを続けるって、本当に難しいですよね。なんでかっていうと、それは、人はあらゆる影響を受け続けて生きていくからだと思います。


良くも悪くも、人間の心や考えは、すぐに変わっていきます。極論を言うと、いまの僕と、五分後「親が事故で亡くなった」ことを知った僕、絶対に違う人間なんです。人は、経験の蓄積によって人格を形成していて。恋人と付き合ってから、日が経つにつれ、多くの新たな経験を積み、確実に変化していく。


その中で、恋人への想いに変化を生じさせる経験も多くあるでしょう。自分の知らないところで勝手に経験を積み、勝手に考え、それを言葉にうまくできず...。こうした心の微妙な揺れ動きの中でのすれ違いは、当たり前にあると思うんですよ。そもそも、生きてきた環境が違う二人。男と女。何もかもが違うんですよ。それでも、この心の機微や考えの違いを、どうにか時間と、愛で埋めていく。恋愛とはかくあるべきだと思うんですよ。それがドメカノはとっても描かれている!


そして駄目押しのgoodポイント!これは性的描写がしっかりされていることでありますね。

恋愛感情の根底は性欲です。性欲の発生原因は子孫繁栄という目的です。セックスなしには恋愛は語ることはできません。チューして終わり、じゃねんだわ。


心の機微に向き合い、受け入れ、認め合う。言葉だけではなく、体で。よく言うじゃん、言葉だけじゃなくて行動しろって。セックスってこれの行動の部分だと思ってるんですよ。


そういうの書けないじゃん、少年マンガってさ。かといって青年漫画になってくると、ドロドロした描写多いやん。読んでて疲れるわ。



ザザーッと思いつくことを書いてて、あんまり首尾一貫かもしれないですが、皆さんの大きな「愛」をもって、受け入れてくれたらなと思います。読んでね、ドメカノ。



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自己肯定に潜む病

ここ最近、自己肯定感って言葉、流行ってますよね?


自己肯定感=自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉らしいです。


なにかを評価する時、基準が必要です。ある基準を超えているから、自分は自分を肯定できる、そのような基準が各々に必要なのです。

が、ふむなるほど、どうやら現代では見えにくくなっているようです。


僕も元来自己肯定感の低い人間です。もちろん生まれつきではなく、決定的な契機がありました。それは小学生の頃まで遡ります。


小学生時代、モテるやつは足が速い奴と相場が決まっていましたよね。そうなんです。極端に足が遅かったんですよ。しかも忘れもしない小学3年の夏。


水泳を習っていたんですが、そこに女の子のDさんがおりまして。彼女とは、幼稚園から一緒でそこそこ仲よかったんですよ。彼女にですね、ある日唐突に言われたんですよ、笑われながら。


「水着にお腹乗ってる気持ちってどんなんなの?デブ。」


は?ってなりましたよね。突然の誹謗中傷への怒りではなく、それは高純度の困惑の感情から出た、は?でした。デブ?誰が?子供の頃なんて、そうそう鏡で自分を見ないんで気づかない。


この時初めて自覚しました。自分はデブであると。


この日以降僕の自己肯定感というものは姿を隠し、どこかへ消えてしまいました。

プールの日は全力でお腹をへこまし、多少暑くても上着を着る事ですこしでも余分な皮下脂肪を隠蔽する毎日。


話が脱線しかけましたが、何が言いたいかというと、僕みたいな人間って沢山いますよね?昔から。こうした些細な理由から自己肯定感を順調に育めなかった人間というものは数多く存在したはずです。


では何故今、「自己肯定感」が流行っているのか?


日本の文化的背景や、教育制度から日本人の自己肯定感がそもそも低い、というのはありますが、それに拍車をかけているのは僕は1つに「インターネットの発達」があると考えます。


ネットの恩恵は様々あります。その中で自己肯定感に関連のある特徴を述べると


①発信、受信の自由化


②情報の遠隔性の解決


この2つにあると思います。

現代では、誰でも好きなことを発信し、それを誰もが受信することができます。これは昔では考えられませんでした。昔より獲得する情報量が圧倒的に多くなった。


冒頭に話は戻りますが、自分を肯定する基準、それは、日々生きていく中で自分の得た経験と向き合い、時には他人の第三者意見を取り入れることで確立していきます。


しかし、インターネットの発達がこの「自分と向き合う」ことを少なく、「第三者の意見」を過多にしています。


なぜなら自分で考える前に、一発ググっちゃえば、誰かが出した答えが出てしまうからです。これが問題なのです。(これが原因で、「話途中で、自分の興味のある話にどんどん飛んでってしまう」特徴をもった人間が今増えてるらしいですね。)


しかもこれ、さも当たり前の様にしちゃってるんですよね。更に日常化していると自分で気づくことができないという。これにより他人の基準を頭ごなしに模倣している状況が出来上がっています。



自分の過去の経験に沿って作られていない基準が、自分の将来を肯定してくれるなんてのは筋が通らない話で。これによって、他人の基準で知らずのうちに自分の価値を測り、自己肯定感を失う人が多い、これが原因だと考えます。日本人の右に倣え精神も相まって。


そしてもう一つは比較対象の増加です。SNS村に所属すると、自分の近い年齢の発信力ある「強い個人」に出会います。昔は、発信力のある人間は限られていましたし、自分の手の届く、近しい社会集団にしか比較対象はいなかった。


それが②によってその檻は壊され、無数の比較対象の場に自分を置くようになった。すると自己肯定の基準はより高くなったり、曖昧になったりで基準を決められず、自己肯定感を得られないとなるわけです。


この様な考えに至ったのも、就職活動中に、とある業界を調べた時にSNSの発達による収益構造の変化を学び、気づきを得たところからです。


栄えある御社の社員様が、大企業のマーケティング部署を用い、こういうような特徴がある、とお話をしていただいたので、僕の憶測や感覚だけではないという事を一応記しておきます。


自己肯定感の本が売れるのは、こうして情報過多になり、輪郭が曖昧にぼやけてしまった自己肯定の基準を、一つ明確に、読者に寄り添って、当たり前のことを再確認するように示しているからなんでしょうね。


こういうSNS病は、知らず知らずの内に、僕たちの身体ではなく思考を冒していることを自覚すべきであると、日々思います。そして、あらゆることに対して、「自分自身で考えた価値基準」を確立して豊かな心を持っていきたいですね。


僕も、自己肯定の絶対的価値基準として、「痩せていること」があります。一応ね。

今晩は。

はじめまして、放蕩ドラ息子のりぐぼです。都内在住、大学生です。名は体を表す。放蕩ドラ息子に僕の自己紹介の全てが詰まっているので、これ以上の情報は蛇足ということで、ここまでにしておきます。


1.ブログ開設の経緯について

 最近こう、多感な時期なんですよね。ぽつらぽつら、思いつくことを今までツイッターに書いていたんですけれど、140字じゃ足りなくなっちゃって。僕が140字に収めきれない文章作成能力の稚拙さを指摘されたらそれまでなんですが、小説も個人的に書いていて。文を書く、その習慣化の場を増やすという理由もあり、始めました。なるべく1日1投稿目指していきたいと思っています。その日に飲み会がなければ(笑)


2.主な内容

基本的に内容は定めず、門戸を広く様々な事を記事にしていきたいと思っています。が、極私的興味が主な思考の苗床になっているのは自認しているところでありますので、アニメ、漫画、ゲーム、音楽等サブカルチャー気質のブログになっていくことを宣言しておきます。オタク特有の早口で。悪しからず。


3.最後に

現代、SNSの発達による、個人の発信力は急速に高まりました。芸能人気取りのパンピーが毎夜飽きもせず、誰も聞いちゃいない極私的批評を正義化し、さも一般化された意見のように発言し議論を繰り返しているような世の中で、あえて公共の場というブログを選びました。僕もパンピー(笑)に迎合し、極私的批評という恥を見せようと思いましたのは、僕も大概パンピー(笑)であるという理由だけでなく、より様々な方々の意見を知りたいという所存であるという事です。あらゆるコメント、歓迎しております。よろしくお願いします。