ヨルシカ「ノーチラス」にて①
本日、ヨルシカの新曲出ましたね。「ノーチラス」
まさに前アルバム、今アルバムで綴られた少年少女の物語の最終話にふさわしい楽曲、そしてPVでした。
こんなにコンセプチュアルに、そして全面に物語を押し出してくる作品は、ボカロ界隈では割と多いのではないでしょうか。「悪の娘」然り、「カゲプロ」然り。
そして、「ヨルシカ」というバンド自体もそう言った類に分けられると思います。
しかし、上記二つと異なる点は、音楽の含有する特性が、物語性のみでなく、作者、つまりはna-bunaの音楽観が落とし込まれている、つまりは芸術性の側面を兼ね備えているところにあると思います。
Na-bunaは、それを表すために、文学でいうところの純文学寄りの歌詞表現を心掛けているように見えました。
例えば、「ただ君に晴れ」の歌詞には、
「絶へず君のいこふ、記憶に夏野の石一つ。」
というフレーズがあるのですが、これは正岡子規の
「絶へず人のいこふ、夏野の石一つ。」のオマージュですし、
「靴の花火」のモチーフは宮沢賢治の「よだかの星」、「負け犬にアンコールはいらない」は岸田稚魚の句集「負け犬」のオマージュですね。
こういった純文学者のオマージュ要素が散りばめられています。
またNa-bunaは、僕も大好きなオスカーワイルドの芸術観を肯定しています。
オスカーワイルドは「幸福な王子」(ツバメが貧乏な人に銅像の王子の纏う金箔を運ぶあれ)「サロメ」(最近クリムト展で話題になったあのパーマの女の人は預言者ヨナカーンの首を手に入れた後のサロメです)など有名な作品を残し、sumikaも引用している
「男は最初になりたがり、女は最後になりたがる。」この名言残した人ですね!
彼は芸術に関してこんな名言を残しています。
「人生が芸術を模倣する」
どういうこっちゃですよね。
まず、古くから「芸術は自然を映す鏡である」という考え方があって。たとえばシェイクスピアはハムレットで、演劇を鏡にたとえ、演劇は「いわば、自然に向って鏡をかかげ、善は善なるままに、悪は悪なるままに、その真の姿を抉りだし、時代の様相を浮びあがらせる」ものだと喩えています。
しかしワイルドは「芸術の目的は芸術そのものであり、自然を模倣するものではない」
「人生が鏡で、芸術が現実」と言うのです。
「人生が芸術を模倣する、人生が実は鏡で、芸術こそが現実」というのは、当時のサロンの女性たちがロセッティの絵に描かれた美女をこぞって真似しているという例をワイルドはあげていますが、ものすごくわかりやすくいえば、「映画の名シーンを思わず日常生活で真似してしまう」とか、そういうことなのです。インスタ映えとかね。
芸術的に、天才が洗練し、典型的にに表現されたイメージは、現実に存在するイメージよりも人を惹きつけると言うことですね。(ワイルドの説明はほぼ彼女の知識です。)
このワイルドの思想が、「ヨルシカ」の楽曲の根源的な思想であり、主人公の悩みの種なのです。
では次でヨルシカ全体の物語、コンセプトを説明して、最後にノーチラスに繋げたいと思います。